私の書道研究観

毛筆で文字を書くという関心を寄せたのは、小学4・5年生の時に始まります。当時、私の通っていた
小学校では、習字の授業がありました。たまたま担任の先生が書の上手な方であり、其の事が影響
してか、毛筆で書くという素晴らしさ、楽しさを知りました。それが書の道に対する興味を持ち始めた
最初の切っ掛けだったと云えます。子供心に少しでも上手になりたい、そんな気持ちが働き、近所の
書道塾に通い始めました。回顧しますと、つい此間の事の様に懐かしく思い出されます。
「三つ子の魂百まで」幼い頃の習い事が今日になって生き続けていることの有り難さを感じます。
さて前置きが長くなりましたが、本題の「私の書道研究観」に就いて述べてみたいと思います。
技術的にも知識的にも未熟な私が書道観を論ずる程の余裕は有りませんが、今迄に得たこと、
感じたこと、私なりに、まとめてみたいと思います。「書」というものは、這入込めば這入込む程、
難しく奥深く限りない、これは私の母校(中学校)の校長先生の言葉ですが、「人生には限りあり、
限りなき学びの道」如くです。例えば、一人の先人が残した筆跡(古典)を生涯かけて、学んでも
容易に学び取ることが出来ません。・・・・・・・・・・・・・・・追いかけても、追いかけても、・・・・・・・
追いつく事の出来ない難しさがあります。それでも一歩一歩確実に、近付く努力を
したいものです。生まれながらにして能書家、名人といわれる人は稀で、どのような人でも努力を
重ねて、才能や技法を高められたそうです。書聖「王義之」でも最初は衛夫人という師について、
楷書は魏の鍾よう、草書は張芝の書いたものをさかんに臨書し、しっかりと学習したそうです。
このように、書道史上に名の残っている大家達は、いずれも忠実に古典を学んでいます。ややもすると
現代書の中には、自己勝手な書が多いと云われています。正統な書を書く為には最高のお手本と
される古碑・古法帖に向かって系統的に繰り返し、繰り返し、臨書し、書の法則を正しく学びとる姿勢が
大事です。・・・・・省みると雑務に追われ時間がとれなくて練習不足、口で言う程、其の大事なことが
出来ないでいる。矢張り、生活態度と環境を変えなくてはと思う此頃である。会社の勤めを終えて
帰宅に着く、ほっと一息して墨を磨り、筆をとり、法帖を横にして書きだしますが、筆が思うように
運んでくれません。心身一体とならないジレンマ、「書は心の画なり」と云われています。その自然に
書ける土台、表現力を豊かにしたいと考えております。
それは「感性」と「感覚」です。そこでどうしたら書がうまくなるかを考えてみたいとおもいます。何か
漠然としますが、私自身の中に、一つ心掛けている事があります。それは日常の身の回りで、文字に
出会った時、俗に上手い字・下手な字であっても目を向けます。総ての字が栄養(感覚)となって
はね返って来るからです。何事も感覚が優れていませんと、物の見方や習い事がうまく行かない様な
気が致します。では感覚を磨くには一体どうしたらよいのかと、言うことになります。。
よく耳にすることですが・・・・・・・一番大切なことは「三多」ではないでしょうか、多くを書き、多くを見る、
多くを聞くことに、つきる様な気がします。「三多」には、各分野でいろいろな方の説があります。
例えば、愛知県出身の俳人、富安風生の説、風生氏は、いい俳句をたくさん読み、たくさんつくり、
そしてたくさん捨てなさい、といっております。いずれにしても、つくったり捨てたりすることには、
根本によしあしに対する感覚、つまり、美的な価値感覚が無ければ出来ません。「書」も全く同じです。
多く書く、多く見る、としましても、感覚を働かさなければ、書いているものが、果たして良いのか
悪いのかも分からない。勿論他人の書いたものの良さなど分かる道理がありません。
従って「学ぶ」ということの根本は、「感ずる心」感覚の問題に帰一するものだと思います。この事を
踏まえて、今迄以上の精進を重ね、「一度の三十枚の練習より、毎日一枚づつの三十枚」
こつこつと地道に、けわしい書の道に取り組んでいきたいと思っております。
                                                ( 平成4年2月 : 小論文 )

艸亭:増田 善吉

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